●飛ぶのはたいへん
もしもアタシに羽があって
空をふつうに飛べるようになるならさ、
まずはあのチュンチュンやかましいすずめたちのところに行って
ちょっと静かにしてちょうだいって言わなくちゃ。
「むかしギリシャのイカロスは〜」で始まる『勇気ひとつを友にして』という歌が苦手です。正確にはメロディは嫌いじゃないけど歌詞が苦手です。苦手になったのにはきっかけがあった。
小学校でこの曲を教わったとき、なんとなく暗い印象のこの曲が大人っぽく感じられて嬉しくて、よく歌っていました。家でゴキゲンで歌っていると、父が唐突に言うのです。「ろうで固めた鳥の羽が太陽の熱で溶けるって気づかないなんてバカ者だ。塀を飛び越えるのに太陽の熱で溶けるぐらいまで高く飛ぶなんてバカ者だ。だいいち人間が羽を手に持って空を飛ぼうとしたら、どれだけの筋力が必要だと思ってるんだ。鳩の大きさがコレぐらいで羽を広げるとこの位だろ、同じ比率で人間の身体に対して必要な羽の大きさを考えてみなさい。そんな大きさの羽を手にもって羽ばたけると思うか?」と。
父の言葉にあっさり納得してわたしはイカロスを全否定した。イカロスはばかだなあ!そんなものは『勇気』とは言わないんだぞ!と。父の思うつぼである。ははは。愚かだなあわたしも。でもまあそういうのを子供らしいとも言うのだろう。
大人になった今思う。あの父の説は小学生の歌う歌が追求するべきリアリティではないよなあ、と。と言いますか、リアリティってのはそういう物理的なことばっかりじゃなくてさ、バカだろうが愚かだろうが、詩や歌詞にはささやかなシンパシィに支えられるリアリティってのがあるのじゃないか。たとえ遠近法が狂っていても人のココロをつかむ絵があるように。ってアラアラいやだ、そうだそんなことあったり前じゃーん!そう考えるともしかしたら父はわたしのしつこくてヒドい歌に辟易して、でもわたしを傷つけないようにあんな風に言ったのかもしれない、なんて思ったりもして。そうだとしたらそれっきりわたしがこの歌を歌わなくなったことこそ父の思うつぼだったわけですね。それにしてもこの歌に関する父流のリアリティはあの時わたしにしっかり染み付いちゃったのでした。ひょっとしたら父のその場かぎりの思いつきだったのかもしれないのにサ。
このあいだNHKのみんなの歌で久しぶりに聞いたもんだから思い出しちゃった。
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